第一章 秋色の記憶
京都・嵐山の渡月橋を、観光客たちが行き交う十月の午後だった。千尋は欄干に寄りかかり、桂川の流れをじっと見つめていた。紅葉にはまだ少し早いが、木々は少しずつ色づき始めている。
三年前の秋、彼女はこの橋の上で蓮と出会った。
その日も今日のように爽やかな秋晴れで、千尋は友人たちと嵐山を訪れていた。橋の真ん中あたりで写真を撮ろうとしたとき、強い風が吹いてスマートフォンを落としそうになった。それを咄嗟に受け止めてくれたのが、隣にいた青年だった。
「大丈夫ですか?」
振り向くと、優しい笑顔の男性が立っていた。蓮は京都の大学に通う大学院生で、たまたま一人で散策に来ていたという。お礼を言う千尋に、彼は「せっかくなので」と、観光ガイドブックには載っていない地元の人だけが知る絶景スポットをいくつか教えてくれた。
それが始まりだった。
連絡先を交換し、千尋が東京に戻ってからも、二人は頻繁にメッセージをやり取りするようになった。何気ない日常の出来事、好きな音楽、読んでいる本。話題は尽きることがなかった。
そして翌年の春、千尋は再び京都を訪れた。今度は蓮に会うために。二人は嵐山を歩き、渡月橋を何度も往復した。川沿いのカフェで何時間も語り合い、夕暮れ時には橋の上で並んで夕日を眺めた。
「また来てね」
別れ際、蓮はそう言って千尋の手を握った。その手の温もりを、千尋は今でも鮮明に覚えている。
第二章 時を止めて
それから千尋は何度も京都を訪れた。夏の緑深い嵐山、初秋の澄んだ空気の中での散策。会うたびに二人の絆は深まっていった。
ある夏の夜、竹林の小径を歩きながら、蓮は千尋に言った。
「君といると、時間が止まればいいのにって思うんだ」
「私も」
千尋はそう答えて、蓮の腕に自分の腕を絡めた。
蓮は研究者を目指していた。日本の古い文化や歴史、特に平安時代の文学を専門にしていた。彼が語る古の京都の物語は、まるで時空を超えて当時の世界に連れて行ってくれるようだった。
「この景色は、千年前からほとんど変わっていないんだよ」
渡月橋の上で、蓮はそう語った。
「平安時代の人々も、この川の流れを見て、同じように季節の移ろいを感じていたんだ。人の思いは時代を超えて続いていく」
その言葉を、千尋は決して忘れないと心に刻んだ。
しかし、運命は時に残酷だ。
蓮に海外の研究機関からオファーが届いたのは、二人が出会って二年が経った頃だった。アメリカの大学で、三年間の研究プロジェクトに参加するという話だった。
「行ったほうがいいと思う?」
蓮は迷っていた。研究者としては願ってもないチャンスだった。しかし、それは千尋と離れることを意味していた。
「行って」
千尋は笑顔で答えた。本当は引き止めたかった。でも、蓮の夢を支えたかった。
「必ず戻ってくるから」
蓮は千尋を抱きしめた。
「それまで、待っていてくれる?」
「当たり前でしょう」
千尋は涙をこらえながら答えた。
第三章 切ない距離
それから一年が経った。
蓮はアメリカで研究に没頭していた。時差は十四時間。千尋が朝目覚める頃、蓮は前日の夜。すれ違う時間の中で、二人のやり取りは徐々に減っていった。
それでも千尋は、渡月橋を訪れることをやめなかった。季節ごとに京都に足を運び、二人で歩いた道を一人でたどった。
会いたいときに会えない。
その現実が、どれほど辛いものか。千尋は初めて知った。
スマートフォンの画面越しに蓮の顔は見える。声も聞こえる。でも、触れることはできない。手を繋ぐことも、抱きしめ合うこともできない。
秋が来るたびに、千尋の心は特に切なくなった。紅葉の季節。蓮と初めて出会った季節。一緒に渡月橋を渡った季節。
「いつ会えるの?」
ビデオ通話で、千尋は何度もそう聞いた。
「もう少し待って。研究が一段落したら、必ず帰るから」
蓮の答えは、いつも同じだった。
第四章 川の流れに祈りを
季節は巡り、再び秋が訪れた。蓮が渡米してから一年半が経っていた。
千尋はまた一人で渡月橋を訪れた。今年の紅葉は特に美しかった。橋の両岸の木々が鮮やかな紅に染まり、川面に映り込んでいる。
橋の中央で立ち止まり、千尋は川の流れを見つめた。
この川は千年前から流れ続けている。人々の喜びも悲しみも、すべてを受け止めて流れ続けている。
千尋は手を合わせ、静かに祈った。
「どうか、また会えますように」
すると、背後から聞き覚えのある声がした。
「千尋」
振り向くと、そこに蓮が立っていた。
「嘘…」
千尋は目を疑った。夢なのではないかと思った。
「サプライズ」
蓮は少し照れくさそうに笑った。
「研究が予定より早く一段落して。連絡しようと思ったけど、直接会いたくて」
千尋は言葉が出なかった。ただ、蓮に駆け寄って、強く抱きついた。
「会いたかった」
涙があふれて止まらなかった。
「俺も。ずっと君のことを考えていた」
蓮も千尋を強く抱きしめた。
二人の周りを、秋風が優しく吹き抜けていった。
第五章 紅に染まる約束
その夜、二人は川沿いのレストランで夕食を共にした。窓から見える渡月橋がライトアップされ、幻想的な光景を作り出していた。
「実はね」
蓮が切り出した。
「今回、日本に戻ってきたのは、君に会うためだけじゃないんだ」
千尋は蓮の目を見つめた。
「プロジェクトのリーダーから、日本での研究拠点を作る話があって。もし実現すれば、来年から京都に戻れるかもしれない」
「本当に?」
千尋の顔が輝いた。
「まだ確定じゃないけど、可能性は高い。それに…」
蓮は千尋の手を取った。
「もう君と離れたくない。どんなに研究が忙しくても、君のそばにいたい」
「私も」
千尋は涙を拭いながら答えた。
「君のそばにいると、どんな不安も消えていくんだ」
蓮は続けた。
「一緒にいてくれる?これから先も、ずっと」
それは婚約の申し込みだった。
「はい」
千尋は迷わず答えた。
レストランの窓の外で、紅葉した木々が秋風に揺れていた。まるで二人の決意を祝福するように。
終章 月影の約束
翌日、二人は朝早くから渡月橋を訪れた。まだ観光客の姿は少なく、静かな時間が流れていた。
「三年前、ここで君と出会えて本当によかった」
蓮が言った。
「あの日の風がなければ、私たちは出会わなかったかもしれない」
千尋は笑った。
「運命だったのかもね」
二人は橋の欄干に寄りかかり、川の流れを見つめた。朝日に照らされた川面がきらきらと輝いている。
「この景色は千年前から変わらないって、前に言ったよね」
千尋が蓮の言葉を思い出して言った。
「うん」
「私たちの想いも、この川の流れのように、ずっと続いていくのかな」
「きっとね」
蓮は千尋の手を握った。
「いや、続かせよう。俺たちの約束として」
二人は橋の上で、もう一度抱き合った。
秋の朝日が二人を包み込む。渡月橋の下を、桂川がゆったりと流れていく。千年前も、そして千年後も、この川は流れ続けるだろう。人々の想いを運びながら。
千尋と蓮の新しい物語が、今、始まろうとしていた。
季節は巡り、人は出会い、別れ、そしてまた出会う。その繰り返しの中で、本当に大切なものを見つけることができる。
渡月橋は今日も、そんな人々の物語を静かに見守っている。
紅に染まる秋の京都で、二人の約束は永遠へと続いていく―。
渡月橋 ~君 想ふ~(2017)/倉木麻衣

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