第一章 赤い光の列
高速道路は完全に麻痺していた。
フロントガラスに叩きつける雪は、ワイパーが動くたびに視界を奪い、また新たな白い幕を張る。俺はハンドルを握りしめたまま、ほとんど動かない車列の中で、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
前方には無数の赤いテールランプが連なっている。まるで夜空に落ちた赤い星々のように、どこまでも続いていた。普段なら苛立ちを覚えるような渋滞も、この夜は不思議と静かな美しさを持っていた。
「わあ、きれい…」
助手席から、小さな声が聞こえた。
振り向くと、彼女は窓の外を見つめたまま、子供のような微笑みを浮かべていた。頬に手を当て、夢を見るような表情で。やがてその表情はゆっくりと緩み、静かな寝息が車内に響き始めた。
俺は小さく笑って、また前を向いた。車は相変わらず進まない。時計を見ると、もう日付が変わろうとしていた。
三十分ほど経った頃だろうか。ようやく車列が動き始めた。俺は彼女の肩をそっと揺すった。
「着くよ。起きて」
彼女は目を開け、一瞬どこにいるのか分からないという顔をして、それから俺を見た。その目には、起こされたことへの小さな恨みが込められていた。
「もう少し寝かせてくれてもよかったのに」
そう言いながらも、彼女は俺の手を強く握り返した。その手は冷たくて、でも確かな温もりがあった。
「ねえ」
彼女は俺の手を両手で包み込みながら言った。
「愛が欲しい」
突然の言葉に、俺は少し驚いた。でも彼女の顔を見ると、それは冗談でもなく、深刻でもなく、ただ素直な願いのように思えた。
「持ってるだろ」
俺はそう答えた。
彼女は満足そうに微笑んで、また窓の外を見た。雪はまだ降り続けていた。
その夜のことを、俺は何でもないことだと思っていた。特別な出来事があったわけでもない。ただ雪で渋滞に巻き込まれて、少し話をして、そして家に帰っただけの夜。
でも今なら分かる。あれは幸せだったのだと。二度とは戻れない、かけがえのない夜だったのだと。
第二章 春を待つ部屋
二月の終わり、彼女は震える声で電話をかけてきた。
「会える? 今日、話があるの」
俺たちはいつものカフェで会った。彼女はコーヒーを注文したものの、ほとんど口をつけなかった。ただカップを両手で包み込んで、その温もりに安心を求めているようだった。
「あのね」
彼女は言葉を探すように、何度か口を開いて閉じた。
「赤ちゃんが、できたの」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが大きく動いた。喜びと戸惑いと、そして漠然とした不安。すべてが一度に押し寄せてきた。
彼女はうつむいて、深くため息を吐いた。その肩は小さく震えていた。
「どうしよう。私、まだ仕事も安定してないし、お金もないし…」
俺は彼女の手を取った。
「大丈夫だよ。春が来たら、一緒に暮らそう。ちゃんと準備して、二人で育てよう」
彼女は顔を上げて、俺を見た。その目には涙が浮かんでいた。
「本当に?」
「本当だよ」
俺が微笑むと、彼女は堰を切ったように泣き出した。そして俺に抱きついて、いつまでも離れなかった。
それから俺たちは忙しくなった。小さなアパートを借りて、必要最低限の家具を揃えた。彼女の体調を気遣いながら、少しずつ二人の生活を作り上げていった。
部屋は古くて狭かったけれど、窓からは桜の木が見えた。まだ枝は裸だったけれど、春になればきっと美しい花を咲かせるだろう。彼女はその木を見るのが好きだった。
「桜が咲く頃には、もうお腹が大きくなってるのかな」
彼女は窓辺に立って、そんなことを言った。その横顔は穏やかで、少し誇らしげにさえ見えた。
夜、二人でソファに座ってテレビを見ながら、俺たちは未来の話をした。名前はどうしようか。男の子かな、女の子かな。どんな子に育つだろう。
何でもない会話。何でもない時間。
でもそれが、どんなに貴重なものだったのか、俺はまだ知らなかった。
第三章 闇に落ちた世界
三月の半ば、冬の終わりが近づいていた。
その日は穏やかな晴れの日だった。俺は仕事を終えて、帰りにスーパーで買い物をした。彼女の好きなイチゴと、栄養のありそうな野菜をたくさん。
部屋に戻ると、リビングに彼女の姿はなかった。
「ただいま」
返事はない。寝室かな、と思いながら買い物袋をキッチンに置いた。
その時、トイレのドアが開いた。
ドアから出てきた彼女の顔を見て、俺の心臓が凍りついた。
蒼白だった。まるで血の気が全て抜け落ちたように、唇まで白くなっていた。彼女は壁に手をついて、今にも倒れそうになりながら立っていた。
「どうした?」
俺は駆け寄った。
「お腹が…痛い」
彼女は震える声で言った。そして俺の腕を掴んだ。その手は氷のように冷たかった。
「出血してる。さっきから…止まらない」
世界が一瞬、静止した。
彼女はその場に座り込み、腹を押さえた。その顔には恐怖が浮かんでいた。
「お母さんに…電話したい」
俺は彼女の携帯を取って、母親の番号を探した。指が震えて、うまく操作できなかった。ようやく繋がると、俺は受話器を彼女に渡した。
「お母さん…」
彼女の声は今にも消えそうだった。
「お腹が痛いの。出血が止まらなくて…怖い。どうしたらいいの」
受話器の向こうから、母親の切迫した声が聞こえた。すぐに病院に行くように。救急車を呼ぶか、今すぐ誰かに運転してもらって。
彼女は頷いて、電話を切った。
「病院に行かなきゃ」
俺は彼女を抱きかかえるようにして立ち上がらせた。
「大丈夫、すぐに着くから」
そう言いながらも、俺の声は震えていた。
病院までの道のりは、あの雪の夜よりもずっと長く感じられた。彼女は助手席で腹を押さえ、小さく呻いていた。俺は必死で運転した。信号が赤でも、一時停止の標識も、何も目に入らなかった。ただ病院に着くことだけを考えていた。
「ごめんね」
彼女が小さく呟いた。
「何も謝ることないよ」
「でも…」
「大丈夫だから。絶対に大丈夫だから」
そう言いながら、俺は自分に言い聞かせていた。大丈夫だ。きっと大丈夫だ。
でも心の奥底では、もう分かっていた。
救急外来に到着すると、すぐに彼女は処置室に運ばれた。俺は待合室で待つしかなかった。時計の針が進むのを見つめながら、ただ祈ることしかできなかった。
どれくらい時間が経ったのか分からない。医師が出てきた時、その表情で全てを悟った。
「申し訳ありません」
その言葉の後に続く説明は、ほとんど耳に入らなかった。ただ「稽留流産」という言葉と、「処置が必要」という言葉だけが、何度も頭の中で繰り返された。
第四章 眠れる森の少女
処置が終わって、彼女は個室のベッドに横たわっていた。
点滴の管が腕に繋がれ、白いシーツが胸まで掛けられていた。彼女は目を閉じて、まるで深い眠りについているように見えた。
その姿は、あの雪の夜、助手席で微笑みながら眠っていた時と重なった。でも今は、あの時の穏やかさはどこにもなかった。
俺はベッドの横の椅子に座って、彼女の手を握った。その手は、あの雪の夜と同じように冷たかった。でも今回は、温もりが戻ってこないような気がした。
「ごめんね」
彼女が小さく呟いた。目は閉じたままだった。
「君のせいじゃない」
「でも…私が気をつけてれば」
「誰のせいでもないんだ」
彼女は目を開けて、俺を見た。その目には、あの雪の夜に見た微笑みの欠片もなかった。ただ深い悲しみと、空虚さだけがあった。
「春になったら、桜を見ながら散歩しようって言ってたのに」
「まだできるよ。二人で」
「でも、三人じゃない」
彼女は再び目を閉じた。その頬を、一筋の涙が伝った。
病院の窓から見える空は、薄く曇っていた。春はすぐそこまで来ているのに、世界は冬よりも冷たく感じられた。
俺は彼女の手を握り続けた。何も言葉が出てこなかった。ただ、離さないようにすることだけを考えていた。
廊下を看護師が歩く足音が聞こえた。誰かの笑い声も聞こえた。この病院のどこかでは、新しい命が生まれているのかもしれない。
でも、この部屋には静寂だけがあった。
二日後、彼女は退院した。俺たちは用意していた部屋に戻った。でも、そこはもう以前の部屋ではなかった。買っておいたベビー用品が、まだ箱に入ったまま片隅に積まれていた。それを見るたびに、彼女は目を逸らした。
窓の外の桜は、つぼみを膨らませ始めていた。もうすぐ花が咲く。でも彼女は、もう窓辺に立とうとはしなかった。
第五章 一年後の雪
そして今、俺は再びあの道を走っている。
ちょうど一年前と同じ時期。同じ道。そして、同じように雪が降り始めていた。
ハンドルを握る手に力が入る。助手席は空っぽだ。
あの後、俺たちの関係は少しずつ変わっていった。彼女は明るく振る舞おうとした。俺も普通に接しようとした。でも、二人の間には見えない壁ができていた。
失ったものは、赤ちゃんだけではなかった。あの夜の無邪気さも、春を待つ希望も、一緒に未来を描く喜びも、全て失われてしまった。
彼女は次第に笑わなくなった。窓辺に立つこともなくなった。ただソファに座って、ぼんやりと何かを見つめているだけの時間が増えていった。
俺は何をすればいいのか分からなかった。慰めの言葉も、励ましの言葉も、全てが空虚に響いた。ただ隣にいることしかできなかった。
でもそれすらも、彼女には重荷だったのかもしれない。
三ヶ月前、彼女は実家に戻ると言った。
「少し、距離を置きたい。あなたのせいじゃないの。でも、今は一緒にいると辛いの」
彼女は泣きながら、そう言った。
「あなたを見ると、思い出すの。あの部屋で過ごした時間も、夢見た未来も、全部。それが辛くて、苦しくて」
俺は止めなかった。止める資格がないような気がした。彼女を苦しめているのが、自分の存在だというなら、離れるしかなかった。
「分かった。でも、いつでも戻ってきていいから」
彼女は小さく頷いて、荷物をまとめた。
玄関で、彼女は振り返った。
「ありがとう。あなたは何も悪くない。私が…弱いだけ」
「そんなことない」
「あのね」
彼女は涙を拭いて、かすかに微笑んだ。
「あの雪の夜のこと、覚えてる。赤いテールランプが綺麗で、幸せだったって。あの時は本当に、何もかもが輝いて見えた」
「俺も覚えてる」
「あの夜に戻れたらいいのにね」
そう言って、彼女は部屋を出て行った。
それからは、たまに短いメッセージを交わすだけの関係になった。元気にしてる、という言葉の裏に、本当は何があるのか分からない。
雪は強くなってきた。前方の車列が赤いテールランプを灯している。あの夜と同じ光景だ。
でも今回は、その美しさを一緒に見る人はいない。
俺は車を路肩に寄せて止めた。窓の外を見ると、雪は激しく舞い、世界を白く染めていく。
何でもないような夜が、どれだけ貴重だったのか。何でもない幸せが、どれだけかけがえのないものだったのか。失って初めて分かった。
あの時、もっと大切にすればよかった。もっと愛していると伝えればよかった。もっと彼女の手を握っていればよかった。もっと、もっと。
でも、時間は戻らない。あの夜は二度と戻ってこない。
携帯が震えた。彼女からのメッセージだった。
「雪、降ってる? 一年前の今日のこと、覚えてる」
俺は画面を見つめた。返信しようと何度も指を動かしたが、言葉が見つからなかった。
何を書けばいいのだろう。会いたいと言えばいいのか。大丈夫かと聞けばいいのか。
結局、俺は短く返した。
「覚えてるよ。ずっと」
すぐに返事が来た。
「私も」
それだけだった。でもその二文字に、どれだけの想いが込められているのか、俺には痛いほど分かった。
雪は降り続けている。車列はゆっくりと進み始めた。俺はエンジンをかけ直して、アクセルを踏んだ。前の車について行く。
いつか、また春が来る。桜が咲き、暖かい風が吹く。
でも、あの日々は戻らない。あの笑顔も、あの温もりも、あの希望も。
全ては雪の中に消えていった。
それでも俺は、この道を進んでいくしかない。
前方の赤い光を追いながら。一人で。
何でもないようなことが、幸せだった。
何でもない夜のことが、かけがえのないものだった。
そして今、俺は一人でこの道を走っている。
雪の降る、長い長い道を。
でも、心のどこかで願っている。
いつか、また彼女と一緒にこの道を走れる日が来ることを。
その時は、赤いテールランプの美しさを、もう一度二人で見ることができるように。
そして今度こそ、失わないように。
ロード(1993)/THE 虎舞竜
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