雪の記憶(9-14分)

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第一章 赤い光の列

高速道路は完全に麻痺していた。

フロントガラスに叩きつける雪は、ワイパーが動くたびに視界を奪い、また新たな白い幕を張る。俺はハンドルを握りしめたまま、ほとんど動かない車列の中で、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

前方には無数の赤いテールランプが連なっている。まるで夜空に落ちた赤い星々のように、どこまでも続いていた。普段なら苛立ちを覚えるような渋滞も、この夜は不思議と静かな美しさを持っていた。

「わあ、きれい…」

助手席から、小さな声が聞こえた。

振り向くと、彼女は窓の外を見つめたまま、子供のような微笑みを浮かべていた。頬に手を当て、夢を見るような表情で。やがてその表情はゆっくりと緩み、静かな寝息が車内に響き始めた。

俺は小さく笑って、また前を向いた。車は相変わらず進まない。時計を見ると、もう日付が変わろうとしていた。

三十分ほど経った頃だろうか。ようやく車列が動き始めた。俺は彼女の肩をそっと揺すった。

「着くよ。起きて」

彼女は目を開け、一瞬どこにいるのか分からないという顔をして、それから俺を見た。その目には、起こされたことへの小さな恨みが込められていた。

「もう少し寝かせてくれてもよかったのに」

そう言いながらも、彼女は俺の手を強く握り返した。その手は冷たくて、でも確かな温もりがあった。

「ねえ」

彼女は俺の手を両手で包み込みながら言った。

「愛が欲しい」

突然の言葉に、俺は少し驚いた。でも彼女の顔を見ると、それは冗談でもなく、深刻でもなく、ただ素直な願いのように思えた。

「持ってるだろ」

俺はそう答えた。

彼女は満足そうに微笑んで、また窓の外を見た。雪はまだ降り続けていた。

その夜のことを、俺は何でもないことだと思っていた。特別な出来事があったわけでもない。ただ雪で渋滞に巻き込まれて、少し話をして、そして家に帰っただけの夜。

でも今なら分かる。あれは幸せだったのだと。二度とは戻れない、かけがえのない夜だったのだと。

第二章 春を待つ部屋

二月の終わり、彼女は震える声で電話をかけてきた。

「会える? 今日、話があるの」

俺たちはいつものカフェで会った。彼女はコーヒーを注文したものの、ほとんど口をつけなかった。ただカップを両手で包み込んで、その温もりに安心を求めているようだった。

「あのね」

彼女は言葉を探すように、何度か口を開いて閉じた。

「赤ちゃんが、できたの」

その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが大きく動いた。喜びと戸惑いと、そして漠然とした不安。すべてが一度に押し寄せてきた。

彼女はうつむいて、深くため息を吐いた。その肩は小さく震えていた。

「どうしよう。私、まだ仕事も安定してないし、お金もないし…」

俺は彼女の手を取った。

「大丈夫だよ。春が来たら、一緒に暮らそう。ちゃんと準備して、二人で育てよう」

彼女は顔を上げて、俺を見た。その目には涙が浮かんでいた。

「本当に?」

「本当だよ」

俺が微笑むと、彼女は堰を切ったように泣き出した。そして俺に抱きついて、いつまでも離れなかった。

それから俺たちは忙しくなった。小さなアパートを借りて、必要最低限の家具を揃えた。彼女の体調を気遣いながら、少しずつ二人の生活を作り上げていった。

部屋は古くて狭かったけれど、窓からは桜の木が見えた。まだ枝は裸だったけれど、春になればきっと美しい花を咲かせるだろう。彼女はその木を見るのが好きだった。

「桜が咲く頃には、もうお腹が大きくなってるのかな」

彼女は窓辺に立って、そんなことを言った。その横顔は穏やかで、少し誇らしげにさえ見えた。

夜、二人でソファに座ってテレビを見ながら、俺たちは未来の話をした。名前はどうしようか。男の子かな、女の子かな。どんな子に育つだろう。

何でもない会話。何でもない時間。

でもそれが、どんなに貴重なものだったのか、俺はまだ知らなかった。

第三章 闇に落ちた世界

三月の半ば、冬の終わりが近づいていた。

その日は穏やかな晴れの日だった。俺は仕事を終えて、帰りにスーパーで買い物をした。彼女の好きなイチゴと、栄養のありそうな野菜をたくさん。

部屋に戻ると、リビングに彼女の姿はなかった。

「ただいま」

返事はない。寝室かな、と思いながら買い物袋をキッチンに置いた。

その時、トイレのドアが開いた。

ドアから出てきた彼女の顔を見て、俺の心臓が凍りついた。

蒼白だった。まるで血の気が全て抜け落ちたように、唇まで白くなっていた。彼女は壁に手をついて、今にも倒れそうになりながら立っていた。

「どうした?」

俺は駆け寄った。

「お腹が…痛い」

彼女は震える声で言った。そして俺の腕を掴んだ。その手は氷のように冷たかった。

「出血してる。さっきから…止まらない」

世界が一瞬、静止した。

彼女はその場に座り込み、腹を押さえた。その顔には恐怖が浮かんでいた。

「お母さんに…電話したい」

俺は彼女の携帯を取って、母親の番号を探した。指が震えて、うまく操作できなかった。ようやく繋がると、俺は受話器を彼女に渡した。

「お母さん…」

彼女の声は今にも消えそうだった。

「お腹が痛いの。出血が止まらなくて…怖い。どうしたらいいの」

受話器の向こうから、母親の切迫した声が聞こえた。すぐに病院に行くように。救急車を呼ぶか、今すぐ誰かに運転してもらって。

彼女は頷いて、電話を切った。

「病院に行かなきゃ」

俺は彼女を抱きかかえるようにして立ち上がらせた。

「大丈夫、すぐに着くから」

そう言いながらも、俺の声は震えていた。

病院までの道のりは、あの雪の夜よりもずっと長く感じられた。彼女は助手席で腹を押さえ、小さく呻いていた。俺は必死で運転した。信号が赤でも、一時停止の標識も、何も目に入らなかった。ただ病院に着くことだけを考えていた。

「ごめんね」

彼女が小さく呟いた。

「何も謝ることないよ」

「でも…」

「大丈夫だから。絶対に大丈夫だから」

そう言いながら、俺は自分に言い聞かせていた。大丈夫だ。きっと大丈夫だ。

でも心の奥底では、もう分かっていた。

救急外来に到着すると、すぐに彼女は処置室に運ばれた。俺は待合室で待つしかなかった。時計の針が進むのを見つめながら、ただ祈ることしかできなかった。

どれくらい時間が経ったのか分からない。医師が出てきた時、その表情で全てを悟った。

「申し訳ありません」

その言葉の後に続く説明は、ほとんど耳に入らなかった。ただ「稽留流産」という言葉と、「処置が必要」という言葉だけが、何度も頭の中で繰り返された。

第四章 眠れる森の少女

処置が終わって、彼女は個室のベッドに横たわっていた。

点滴の管が腕に繋がれ、白いシーツが胸まで掛けられていた。彼女は目を閉じて、まるで深い眠りについているように見えた。

その姿は、あの雪の夜、助手席で微笑みながら眠っていた時と重なった。でも今は、あの時の穏やかさはどこにもなかった。

俺はベッドの横の椅子に座って、彼女の手を握った。その手は、あの雪の夜と同じように冷たかった。でも今回は、温もりが戻ってこないような気がした。

「ごめんね」

彼女が小さく呟いた。目は閉じたままだった。

「君のせいじゃない」

「でも…私が気をつけてれば」

「誰のせいでもないんだ」

彼女は目を開けて、俺を見た。その目には、あの雪の夜に見た微笑みの欠片もなかった。ただ深い悲しみと、空虚さだけがあった。

「春になったら、桜を見ながら散歩しようって言ってたのに」

「まだできるよ。二人で」

「でも、三人じゃない」

彼女は再び目を閉じた。その頬を、一筋の涙が伝った。

病院の窓から見える空は、薄く曇っていた。春はすぐそこまで来ているのに、世界は冬よりも冷たく感じられた。

俺は彼女の手を握り続けた。何も言葉が出てこなかった。ただ、離さないようにすることだけを考えていた。

廊下を看護師が歩く足音が聞こえた。誰かの笑い声も聞こえた。この病院のどこかでは、新しい命が生まれているのかもしれない。

でも、この部屋には静寂だけがあった。

二日後、彼女は退院した。俺たちは用意していた部屋に戻った。でも、そこはもう以前の部屋ではなかった。買っておいたベビー用品が、まだ箱に入ったまま片隅に積まれていた。それを見るたびに、彼女は目を逸らした。

窓の外の桜は、つぼみを膨らませ始めていた。もうすぐ花が咲く。でも彼女は、もう窓辺に立とうとはしなかった。

第五章 一年後の雪

そして今、俺は再びあの道を走っている。

ちょうど一年前と同じ時期。同じ道。そして、同じように雪が降り始めていた。

ハンドルを握る手に力が入る。助手席は空っぽだ。

あの後、俺たちの関係は少しずつ変わっていった。彼女は明るく振る舞おうとした。俺も普通に接しようとした。でも、二人の間には見えない壁ができていた。

失ったものは、赤ちゃんだけではなかった。あの夜の無邪気さも、春を待つ希望も、一緒に未来を描く喜びも、全て失われてしまった。

彼女は次第に笑わなくなった。窓辺に立つこともなくなった。ただソファに座って、ぼんやりと何かを見つめているだけの時間が増えていった。

俺は何をすればいいのか分からなかった。慰めの言葉も、励ましの言葉も、全てが空虚に響いた。ただ隣にいることしかできなかった。

でもそれすらも、彼女には重荷だったのかもしれない。

三ヶ月前、彼女は実家に戻ると言った。

「少し、距離を置きたい。あなたのせいじゃないの。でも、今は一緒にいると辛いの」

彼女は泣きながら、そう言った。

「あなたを見ると、思い出すの。あの部屋で過ごした時間も、夢見た未来も、全部。それが辛くて、苦しくて」

俺は止めなかった。止める資格がないような気がした。彼女を苦しめているのが、自分の存在だというなら、離れるしかなかった。

「分かった。でも、いつでも戻ってきていいから」

彼女は小さく頷いて、荷物をまとめた。

玄関で、彼女は振り返った。

「ありがとう。あなたは何も悪くない。私が…弱いだけ」

「そんなことない」

「あのね」

彼女は涙を拭いて、かすかに微笑んだ。

「あの雪の夜のこと、覚えてる。赤いテールランプが綺麗で、幸せだったって。あの時は本当に、何もかもが輝いて見えた」

「俺も覚えてる」

「あの夜に戻れたらいいのにね」

そう言って、彼女は部屋を出て行った。

それからは、たまに短いメッセージを交わすだけの関係になった。元気にしてる、という言葉の裏に、本当は何があるのか分からない。

雪は強くなってきた。前方の車列が赤いテールランプを灯している。あの夜と同じ光景だ。

でも今回は、その美しさを一緒に見る人はいない。

俺は車を路肩に寄せて止めた。窓の外を見ると、雪は激しく舞い、世界を白く染めていく。

何でもないような夜が、どれだけ貴重だったのか。何でもない幸せが、どれだけかけがえのないものだったのか。失って初めて分かった。

あの時、もっと大切にすればよかった。もっと愛していると伝えればよかった。もっと彼女の手を握っていればよかった。もっと、もっと。

でも、時間は戻らない。あの夜は二度と戻ってこない。

携帯が震えた。彼女からのメッセージだった。

「雪、降ってる? 一年前の今日のこと、覚えてる」

俺は画面を見つめた。返信しようと何度も指を動かしたが、言葉が見つからなかった。

何を書けばいいのだろう。会いたいと言えばいいのか。大丈夫かと聞けばいいのか。

結局、俺は短く返した。

「覚えてるよ。ずっと」

すぐに返事が来た。

「私も」

それだけだった。でもその二文字に、どれだけの想いが込められているのか、俺には痛いほど分かった。

雪は降り続けている。車列はゆっくりと進み始めた。俺はエンジンをかけ直して、アクセルを踏んだ。前の車について行く。

いつか、また春が来る。桜が咲き、暖かい風が吹く。

でも、あの日々は戻らない。あの笑顔も、あの温もりも、あの希望も。

全ては雪の中に消えていった。

それでも俺は、この道を進んでいくしかない。

前方の赤い光を追いながら。一人で。


何でもないようなことが、幸せだった。

何でもない夜のことが、かけがえのないものだった。

そして今、俺は一人でこの道を走っている。

雪の降る、長い長い道を。

でも、心のどこかで願っている。

いつか、また彼女と一緒にこの道を走れる日が来ることを。

その時は、赤いテールランプの美しさを、もう一度二人で見ることができるように。

そして今度こそ、失わないように。

ロード(1993)/THE 虎舞竜

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