第一章 失くしたもの
桜が散り始めた四月の午後、駅のホームで僕は一人立ち尽くしていた。電車が行き交うたびに、風が舞い上がって花びらを運んでいく。その光景を見ているうちに、ふと彼女のことを思い出した。
美咲と出会ったのは、ちょうど一年前の春だった。大学の図書館で偶然隣の席に座った彼女は、真剣に本を読んでいた。時折見せる困った表情が愛らしくて、思わず声をかけてしまった。それが始まりだった。
「難しい本ですね」 「ええ、でも面白いんです。この作家の描く心理描写が」
彼女は振り返ると、人懐っこい笑顔を見せてくれた。その瞬間から、僕の世界は彩りを帯びた。
夏になると、僕たちはよく海に出かけた。美咲は水しぶきを上げながら、子供のように無邪気に笑った。砂浜に座って夕日を眺めながら、将来の話をした。彼女は保育士になりたいと言っていた。子供たちの笑顔が何よりも好きだった。
「あなたは何になりたいの?」 「僕は…まだわからない。でも美咲と一緒にいられれば、それで十分だ」
そんな僕の答えに、彼女は少し寂しそうな顔をした。今思えば、その時既に何かが始まっていたのかもしれない。
第二章 すれ違う心
秋が深まる頃、僕たちの間に小さな亀裂が生まれ始めた。きっかけは些細なことだった。美咲が就職活動で忙しくなり、会える時間が少なくなったのだ。僕は理解しようとしたが、どうしても寂しさが先に立った。
「最近、全然会えないね」 「ごめん、でも今は大切な時期だから」 「僕より就活の方が大事なんだ」 「そんなこと言わないで」
いつも僕の方から折れていた。彼女のわがままも、強がりも、全部愛おしいと思っていた。でも、心のどこかで不安が膨らんでいく。このまま彼女を失ってしまうのではないかという恐怖が。
ある雨の日、僕たちは大きな喧嘩をした。美咲が内定をもらった保育園が遠方にあることがわかったのだ。
「おめでとう」と言いながら、僕の心は複雑だった。 「ありがとう。でも…」 「でも?」 「遠いの。こっちには月に一度しか帰ってこられない」
沈黙が流れた。お互いの将来について、真剣に話し合うべき時が来ていた。でも僕には、彼女の夢を応援する勇気も、自分の気持ちを正直に伝える勇気もなかった。
第三章 別れの冬
十二月の寒い夜、美咲から連絡があった。普段と違う、どこか硬い声だった。
「話がある」
駅前のカフェで彼女を待った。来るまでの間、僕は何度も想像した。きっと遠距離恋愛について話したいのだろう。どんな提案をされても、僕は彼女を支えると決めていた。
でも現実は違った。
「お疲れ様。ごめん、遅くなって」
美咲は座ると、しばらく俯いていた。やがて顔を上げた彼女の瞳には、僕が見たことのない強い意志があった。
「実は…別れてほしいの」
言葉が理解できなかった。頭の中が真っ白になって、ただ彼女を見つめることしかできなかった。
「なぜ?」やっと絞り出した声は、かすれていた。 「あなたには、あなたの道があるでしょう?私は私の夢を追いたい。でも今のままじゃ、お互いを束縛してしまう」 「束縛なんて…」 「そうじゃないの。あなたは優しすぎるの。私のために自分を犠牲にしてしまう。それが見ていて辛い」
美咲は涙を流していた。でもその表情は、確固たる決意に満ちていた。
「僕は美咲のために何でもする。それのどこが悪い?」 「それが問題なの。あなたにも、あなた自身の人生があるの。私はあなたにとって、足かせになりたくない」
僕は必死に説得しようとした。でも彼女の心は既に決まっていた。
その夜、雪が降り始めた。美咲を駅まで送る途中、僕たちは黙って歩いた。改札の前で、彼女は振り返った。
「ありがとう。楽しかった」 「美咲…」 「元気でね」
彼女は改札を通り、階段を上がっていく。僕はただそれを見送ることしかできなかった。振り返ることはなかった。
第四章 探し続ける日々
春が来ても、僕の心は冬のままだった。大学に行く途中、街角で彼女を探している自分がいた。美咲がよく通っていた本屋、一緒に食事をしたレストラン、思い出の場所を無意識に歩き回った。
向かいのホームで電車を待つ人の中に彼女の姿を探した。路地裏の窓から見える部屋に、もしかしたらと思った。そんなところにいるはずもないのに。
友人たちは心配して、新しい恋を勧めてくれた。合コンに誘われることも多かった。でも誰といても、美咲のことばかり考えてしまう。寂しさを紛らわすだけなら、誰でもいいのかもしれない。でも僕にはできなかった。
星が落ちそうな夜、一人でベランダに立った。自分に嘘をつくことはできない。まだ彼女を愛している。その気持ちだけは、どうしても変えることができなかった。
第五章 それぞれの道
夏が過ぎ、秋が来た。僕は就職活動を始めていた。美咲の言葉を思い出していた。「あなたにも、あなた自身の人生がある」。彼女は正しかった。僕は彼女に依存していたのかもしれない。
でも今は違う。自分なりに歩もうとしている。教育関係の仕事に興味を持った。美咲のように、誰かの成長を支える仕事がしたいと思った。
ある日、友人から美咲の近況を聞いた。彼女は新しい職場で頑張っているらしい。子供たちに慕われて、とても充実しているという。僕は複雑な気持ちだったが、同時に安心した。彼女が幸せなら、それでいい。
交差点で信号待ちをしていると、ふと彼女の面影を見つけた。でも振り返ると、知らない人だった。夢の中では、まだ時々彼女に会う。笑顔で手を振ってくれる。でも目が覚めると、現実に引き戻される。
もし奇跡が起こるなら、今すぐ彼女に見せたい。新しい朝を迎えた僕を。これからの僕を。そしてあの時言えなかった「好き」という言葉も。
第六章 記憶の破片
季節は巡り、再び春が来た。桜が咲き、一年前の記憶が蘇る。あの頃の思い出が、心の中で回り続ける。ふいに消えた鼓動のように、突然現れては消えていく。
僕はまだ彼女を探していた。明け方の街を歩きながら、桜木町の駅で。彼女がそんなところに来るはずもないのに。
旅行先でも、ふと彼女のことを思い出す。小さなカフェの片隅で、新聞を読んでいると、美咲が好きだった作家の記事を見つけた。そんなところに彼女の破片があるはずもないのに。
でも僕は探し続ける。彼女の笑顔を、彼女の声を、彼女との思い出を。踏切で急行電車を待ちながら、もしかしたらと振り返る。そんなところにいるはずもないのに。
第七章 再生への道
春の終わり、僕は内定をもらった。地元の学習塾だった。子供たちに勉強を教えながら、彼らの成長を見守る仕事。美咲のように、誰かのために役に立てる仕事だった。
その日の夜、久しぶりに心が軽やかだった。美咲に報告したい気持ちになった。でも連絡先は削除していた。それでも、きっと彼女も喜んでくれるだろうと思った。
もし命が繰り返すならば、何度でも彼女のもとへ行きたい。でも今は、前に進まなければならない。欲しいものは何もない。彼女以外に大切なものなどないと思っていた。でも今は違う。彼女との思い出を大切にしながら、新しい人生を歩んでいこう。
第八章 桜散る頃に
一年後の春、僕は塾で働いていた。子供たちは僕を慕ってくれて、毎日が充実していた。美咲の言葉が理解できるようになった。自分の道を歩むこと、それがどれほど大切かを。
ある日、帰り道で桜並木を歩いていると、向こうから歩いてくる女性に目を奪われた。歩き方も、佇まいも、あの頃の美咲にそっくりだった。
近づいてくると、それは確かに彼女だった。美咲は僕に気づくと、驚いたような、でも嬉しそうな表情を見せた。
「お疲れ様」 「美咲…元気だった?」 「ええ、あなたは?」
二人で近くのカフェに入った。お互いの近況を報告し合った。美咲は保育士として充実した毎日を送っていた。僕も塾の仕事が楽しいと話した。
「あの時は、ごめんなさい」美咲が口を開いた。 「謝ることなんて何もない。君は正しかった」 「でも、もう少し優しく言えばよかった」 「おかげで僕は成長できた。ありがとう」
美咲は微笑んだ。あの頃と変わらない、美しい笑顔だった。
終章 新しい季節
その日から、僕たちは友人として連絡を取り合うようになった。お互いの仕事の話、近況の報告。恋人だった頃とは違う、でも温かい関係だった。
夏になって、美咲から連絡があった。結婚することになったという。相手は同僚の男性で、子供たちのことを一番に考えてくれる人だった。
「おめでとう」僕は心から祝福した。 「ありがとう。あなたにも、いつか素敵な人が現れるよ」 「そうかもしれないね」
美咲の結婚式には呼ばれなかったが、それでよかった。彼女が幸せになれるなら、それが一番だった。
秋が来て、僕は新しい恋人に出会った。塾の同僚の女性だった。美咲とは全く違うタイプだったが、優しくて聡明な人だった。彼女と過ごしていると、心が穏やかになった。
美咲との思い出は、僕の中で大切な宝物になった。あの恋があったからこそ、今の僕がある。失恋の痛みも、探し続けた日々も、すべてが意味のあることだったのだ。
季節は巡る。桜が散り、新緑が芽吹き、夏が過ぎ、紅葉が美しく色づく。そして雪が降り、また春が来る。人の心も同じように、様々な季節を経験しながら、成長していくのだろう。
美咲は今も、きっとどこかで子供たちの笑顔に囲まれている。僕も自分の道を歩み続けている。もう彼女を探すことはない。でも忘れることもない。心の奥底に、いつまでも大切にしまっておこう。
あの日々が教えてくれたこと。愛すること、失うこと、そして再び歩み始めること。すべてが人生の一部なのだ。今度こそ、自分らしく生きていこう。新しい季節を迎えるために。
One more time, One more chance(1997)/山崎まさよし
コメント