第一章 冷たい街角
冬の夜、都会の喧騒は容赦なく響き渡る。ネオンの光が濡れた路面に反射して、まるで偽物の星空のように見えた。
美咲は駅前の雑踏の中に立ち尽くしていた。スマートフォンの画面には、既読のついたメッセージが並んでいる。返信はない。もう三日になる。
「ここは、どこだっけ」
呟いた言葉は、誰にも届かずに夜の冷気に溶けていった。見慣れたはずの街なのに、今日はどこか別の場所にいるような気がする。自分がどうしてここに立っているのかも、よく思い出せなかった。
膝を抱えてコンビニの前に座り込む。店内の明るい光が、目に痛い。
五年前、この街に出てきたときの自分を思い出す。夢を抱いて、希望に満ちていた。デザイナーになりたい。自分の描いたものが、誰かの心を動かすような仕事がしたい。そう信じて疑わなかった。
でも現実は違った。安いアパートで独りぼっち。派遣の仕事を転々として、貯金は底をつきかけている。提出した作品は何度も不採用になり、いつしか描くことさえ億劫になっていた。
「誰か、助けて」
心の中で叫んでも、答えはない。
第二章 星の見えない夜空
翌日、美咲は珍しく早起きした。理由は簡単だ。一睡もできなかったから。
ベッドに横になっても、天井を見つめるだけだった。時計の針が進む音だけが、やけに大きく聞こえる。誰かそばにいてくれたら。手を繋いでくれる人がいたら。そんな甘い願いが頭をよぎる。
「夜明けは来るよ」
そう言ってくれる声を、求めていた。たとえそれが嘘でもいい。今はただ、温もりが欲しかった。
窓の外を見上げる。いつも通り、星は見えない。都会の空は明るすぎて、星なんて見えやしない。それでも子供の頃は、星座の本を眺めるのが好きだった。
ふと、携帯が震えた。
「美咲、元気? 久しぶりに会わない?」
高校の同級生、真由からのメッセージだった。懐かしい名前に、胸が少し温かくなる。
第三章 失われた光
週末、美咲は真由と五年ぶりに再会した。駅前のカフェで、かつての思い出話に花が咲く。
「美咲、変わらないね」
真由は明るく笑った。でも、その言葉に美咲は複雑な気持ちになる。変わってないということは、成長してないということじゃないか。
「真由は? 仕事順調?」
「うん、まあね。結婚も決まったし」
真由の左手の薬指に、小さな指輪が光っている。美咲は笑顔で祝福の言葉を口にしたが、心のどこかが冷たく縮こまるのを感じた。
帰り道、美咲はまた独りになった。人混みの中を歩きながら、ふと気づく。
「あの人は、今どうしてるんだろう」
大学時代に出会った、あの人。一緒に絵を描き、夢を語り合った。図書館で偶然隣に座ったことから始まった関係。星屑のように無数にいる人の中から、奇跡的に出会えた。
でもいつしか、すれ違うようになった。美咲は就職活動に失敗し、あの人は海外留学が決まった。「待ってて」と言われたけれど、美咲は答えられなかった。自分に自信が持てなくて、未来が見えなくて。
そして、連絡を絶った。
第四章 捨てたもの、失ったもの
アパートに戻ると、美咲はクローゼットの奥から古いスケッチブックを引っ張り出した。
ページをめくる。そこには、かつて描いた無数の絵があった。風景画、人物画、抽象的な模様。どれも今見ると稚拙だけれど、確かにあの頃の自分の魂が込められている。
最後のページに、一枚の絵があった。
夜空を見上げる人の後ろ姿。星は描かれていない。ただ暗い空があるだけ。でもその人は、何かを探すように空を見つめている。
「これ、あの人が描いてって言ったんだっけ」
指で絵をなぞる。涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえた。
あの頃の自分に、もう一度戻れたら。同じ気持ちのまま、あの人に会えたら。そう思っても、過去は戻らない。捨ててしまったものは、もう手に入らない。
「でも…」
美咲は静かに呟いた。
「もし、生まれ変われるなら」
第五章 小さな星座の輝き
次の日、美咲は思い切って連絡をとってみることにした。
かつて応募していたデザイン事務所の担当者に、もう一度作品を見てもらえないかとメールを送る。断られるかもしれない。でも、このまま何もしないよりはいい。
それから、真由にもメッセージを送った。
「おめでとう。幸せになってね。私も、頑張るから」
本当の気持ちだった。人と比べて落ち込むより、自分の道を進もう。そう決めた。
そして最後に、あの人のSNSアカウントを探した。五年ぶりに見るプロフィール。最近の投稿には、海外での展覧会の写真が並んでいる。
「すごいな…」
素直にそう思った。羨ましいとか、悔しいとかじゃない。ただ、よかったねって思えた。
勇気を振り絞って、いや、自分の気持ちに正直に従って、ダイレクトメッセージに短い言葉を残す。
「こんな小さな存在の私だけど、昔のこと、覚えてるかな」
送信ボタンを押すと、不思議と心が軽くなった。
第六章 終わらない夜の終わり
その夜、美咲は久しぶりにぐっすり眠れた。
夢を見た。
夜空に、たった一つの星が輝いている。六等星くらいの、とても小さくて暗い星。肉眼では見えないほど微かな光。でもそれは、確かにそこに存在している。
「見つけた」
誰かの声が聞こえた。
目が覚めると、朝だった。カーテンの隙間から、柔らかな光が差し込んでいる。
携帯を見ると、メールの通知があった。デザイン事務所からだ。
「作品、拝見させていただきます。来週、お時間ありますか?」
美咲は飛び上がった。
それから、もう一つ通知が。あの人からだった。
「久しぶり。覚えてるよ、もちろん。今度日本に帰るんだ。会える?」
涙が溢れた。でも今度は、悲しい涙じゃない。
終章 光を宿して
美咲は窓を開けて、空を見上げた。
まだ朝だから星は見えない。でも夜になったら、きっと輝いているはずだ。都会の空では見えなくても、星座は確かにそこにある。
過去は変えられない。泣いた夜も、転んだ日も、全部消せない。でもそれは、無駄じゃなかった。全部、今の自分を作るための道のりだった。
「さよなら、昨日の私」
美咲は小さく呟いた。
「こんにちは、明日の私」
そして部屋を出て、新しい一日に向かって歩き出した。
街は相変わらず冷たくて、人混みは無関心だ。でも美咲の心には、小さな光が灯っている。誰かに見えなくても、自分には見える。それで十分だった。
傷ついたとき、誰かに包んでもらえたら嬉しい。転んだとき、誰かが手を差し伸べてくれたら助かる。でもまず、自分で立ち上がることができる。そう気づいた。
星のない空に、光を探し続けよう。
それが美咲の、新しい願いだった。
エピローグ
数ヶ月後。
美咲のデザインした作品が、小さなギャラリーに展示されることになった。そこには、あの夜空の絵も飾られている。星のない空を見上げる人の絵。でも今度は、その人の手に小さな光が握られていた。
オープニングの日、たくさんの人が訪れた。真由も来てくれた。そして、あの人も。
「変わったね」
あの人は微笑んだ。
「うん。でも、変わってないところもあるよ」
美咲も笑った。
二人は並んで、窓の外を見た。夜が訪れ、ビルの灯りが星のように輝き始める。
「本当の星は見えないけどね」
「でも、ここにあるよ」
あの人は美咲の胸に手を当てた。
「君の中に、光があるから」
その言葉が、美咲の心を温かく照らした。
六等星でもいい。微かな光でもいい。
それでも、輝き続けよう。
明日を照らすために。
六等星の夜(2011)/Aimer
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